宮崎医科大学の一期生、巨人軍のキャンプが見える仮校舎で勉強

大学時代のエピソードを聞かせてください。

鈴宮

僕は宮崎医科大学(現:宮崎大学医学部)の一期生なんです。校舎が間に合わなかったため、巨人軍がキャンプをしている総合運動公園の事務室を教室に使っていました。教室には、「中畑~、へたくそ!」とメガホンで怒鳴る長嶋茂雄監督の声が聞こえてきて、その横で王貞治が黙々とバットを振っているのが見えました。定岡正二が入団していて、定岡の周りには女子高生が群れているのですぐにわかりました。「野球選手も大変だなあ」と思いながら見ていましたね。 大学では出席をとらないので、あまり学校に行きませんでしたが、病院実習はそれなりに頑張りました。サボりの典型的な学生で、いまの自分の立場なら怒るような学生ですね。僕はサッカー部に入ったので、夕方からサッカーをして、土日は試合がないと友人が連れて行ってくれる山登りです。宮崎県には登山やトレッキングができる山がたくさんありました。
2年生になったら新校舎に移り、体育館やプール、グラウンドに野球場、サッカー場、6面のテニスコートもできました。でも、学生は2学年200人しかいないので、サッカー部も11人に満たず、他の部から人を借りて試合に出ました。僕らも、野球部の試合に出てたり、サッカー部と野球部で練習試合をして、サッカー部が勝ったりしていました。
サッカー部員は7~8年下まで仲良しで、今でも時々集まって中洲で宴会を開いたりしています。

お話がとても面白いのですが、いつから無口ではなくなったのですか。

鈴宮

無口にこだわりますね(笑)。大学に入って一人暮らしになり、しゃべらないといけなくなり、そしてお酒を覚え、飲み屋で社会勉強をするようになってからのように思います。物怖じせずに、話せるようになりました。「うちで働かない?」と、お店のママさんに誘われたこともあります。カラオケを入れたり、自分で飲むものは自分でつくったり、飲み屋では気が利く子だったからだと思います。

そういう大学時代を過ごして、どういう経緯で血液内科に進まれたのですか。

鈴宮

僕は塗り絵もきちんとできないような幼稚園児でしたし、家庭科で雑巾を縫えば、雑なのであっという間にできるけど、すぐほころびる、椅子を作れば傾く。飽きっぽく、根気がないし、不器用だったんです。それで、外科医など手術をするような診療科は向いてないと思いました。それなら内科ですが、胃カメラは難しそうだし、神経内科も向いていないし、糖尿病も当時は面白くなかったし、循環器は頭のいい人が行く所だし…。で、残ったのが血液です。顕微鏡で標本を見るのは好きだったので、いいかもしれないと思いました。やはり、いい加減ですね(笑)。

研修医時代に思い出に残っている患者さんはいらっしゃいますか。

鈴宮

最初に担当した急性骨髄性白血病の患者さんを今でもよく覚えています。病棟医長は、「研修医がいきなり重症患者さんを担当すると大変だから」と言われていたのに、翌朝病棟に行くと、その重症患者さんの横に僕の名前が書いてありました。
その患者さんは40代の学校の先生で、当時は今ほど輸血ができなかったのですが、輸血する血液が足りないと聞きつけて、教え子たちが献血に行くのです。実際にその血液が輸血されるわけではないのですが、「なんとか助かってほしい」という必死の思いだったのでしょう。穏やかな本当にいい患者さんでした。きっといい先生だったのだと思います。何もわからない中、夢中で輸血をしたり、抗菌薬を投与したりしましたが、受け持ちになってから2ヵ月半で亡くなられてしまいました。今なら骨髄移植ができますが、有効な薬もなく、打つ手がなかった時代です。
初めて担当した患者さんに何もできなかったことが悔しく、なんとかして救いたいという思いが湧いてきて、その後も血液の道を歩むことになりました。少しまともな話になりましたね、よかったです(笑)。