北九州でのびのび育った少年時代

ご出身はどちらですか。

鈴宮

北九州の小倉で生まれ育ちました。小倉の清水というところで小学校低学年まで育ちました。現在では信じられないくらい車も少なく、十三間(約24m)道路という道路が家の近くにありましたが、みんなで道路を挟んでキャッチボールができるくらいでした。清水観音が遊び場で、池で魚をとったり(本当はだめなのですが)、観音様の裏山で虫取りをしたりして楽しく過ごしました。また、当時は7月に開催されていた「小倉祇園太鼓」の太鼓の練習の音が響き、わくわくした日を過ごしたのを覚えています。その後、次第に公害がひどくなり、光化学スモッグ警報が出されたり、小倉の町の中心を流れる川は下流のところではヘドロが溜まり、油膜で七色に輝き、「川に落ちたら死ぬぞ」と言われるほど汚染されていました。今では、鮭が遡上するようになった、と言われても信じられないですが。

子供の頃はどんなお子さんでしたか。 

鈴宮

今となっては誰も信じてくれませんが、無口な子供でした(笑)。高校の3年間の両親との会話は60分テープ1本に収まるくらいでしたから、医学部を受験すると言ったら、「医者はしゃべらないといけないよ」と適性を疑われてしまいました。2歳上の姉ともあまりしゃべりませんでしたが、友だちとは普通に話していました。
小学生のとき、父の転勤で福岡県豊前市に引っ越しました。田舎なので小学校は2クラスしかなく、放課後は毎日野球やサッカー、魚釣りをして遊んでいました。

お医者さんになろうと思われた時期と理由を教えてください

鈴宮

医師になろうと思ったのは高校の時です。クラスの15人ほどが医師になっています。出席番号順に机を並べて、前の席の友人は外科医、後ろの席の友人は、残念ながら昨年亡くなったのですが循環器内科医になり、同窓会で集まると「クラスで総合病院が建つね」と恩師が笑っていました。
僕たちは1970年代の学生運動に間に合わなかった世代です。中学生の時に学生運動をしているお兄さんたちを好奇のまなざしで眺めていましたが、高校に入った時にはすでに下火になっていました。「ネクタイをして、真面目に働くサラリーマンは無理だろうな。でも、弁護士は司法試験が難しいし、医師なら真面目に働かなくても食べていけるかもしれない」などと友達同士で話していて、それで医学部に行くことにしました。いい加減ですね(笑)。

クラスで15人も医学部に進学されるなんて、かなりの進学校だったのですね。

鈴宮

地方の進学校で、それなりに勉強していましたが、成績は芳しくなく、結局浪人しました。当時の福岡県立の進学校には予備校が併設されていて、高校は4年制と言われ、多くの生徒が浪人しました。それで、抵抗もなく浪人し、楽しい予備校時代を過ごしました。
家から予備校に行くのに繁華街を抜けていくので、途中で誰かに声をかけられ、パチンコや雀球屋に行先が変わるわけです。雀球屋で遊んでいて、4人揃えば雀荘に行く。その生活は、大学に入学してからも大きくは変わりませんでした。