様々なタイプの指導者に巡り会って

第二日赤でも研修されていますね。

黒田

血液をやると決めたので、3年目以降は血液疾患をたくさん診られるところに行きたいとお願いし、第二日赤の血液内科に2年間、行かせていただきました。そして、そこでもまた、いい出会いがありました。一人は当時、血液内科部長をされていた林英夫先生です。この方は昔ながらの経験豊かな先生で、その観察力と洞察力には目を見張るものがありました。顕微鏡を覗きながら「黒田君、この人はこんな薬のほうが効くと思うよ」と仰るのですが、私にはそれがなぜだかわかりません。でも、それが当たるのです。いつも夕方になると、検査室で骨髄を顕微鏡で観察されていて、子供に教えるように「黒田君、これわかるか」と、丁寧に教えてくださいました。もう一人は現在、佐賀大学の教授をされている木村晋也先生です。医局の先輩で、オーストラリア留学から帰国されたばかりでした。それから十数年間、一緒に働かせていただくことになるのですが、木村先生は非常にサイエンティフィックで合理的な方なのです。論文の書き方、科学的にものを考えるということを指導してくださいました。その一方で、自治医科大学卒で、留学前は地域医療をされていたジェネラリストでもあり、他領域の不勉強は許されませんでした。

研修医の頃と比べると、血液疾患の治療はだいぶ変わったのではないですか。

黒田

僕にとってラッキーだったのは、2000年頃から分子標的薬が次々に登場し、骨髄非破壊的移植が導入され、臍帯血移植も急増するなど、血液診療学が劇的に変化する時代を経験できたことです。今であれば使える治療薬も支持療法がないせいで患者さんが苦しんでいた古い時代を少しだけ見て、それから治療が急展開していったので、常に刺激を受けながらマンネリ化などする暇もなく続けることができました。僕が第二日赤で最初に担当したのはPh陽性急性リンパ性白血病の男の子で、木村先生と一緒に2年半ほど頑張って治療したのですが、イマチニブが間に合わずに亡くなられました。リツキシマブも治験中で、患者さんたちから「こんな薬があるらしいけど、使えないの?」と聞かれましたが、当時の第二日赤では使えない。そういう時代には非常に悔しい思いをしました。当時の患者さんのことは、今でもよく覚えています。