疾患のメカニズムを解明し、
ターゲットを見つけて治療法を開発

UCLAではどんな研究をされていたのですか。

木崎

当時はレチノイン酸受容体の遺伝子がクローニングされた頃で、フィルはレチノイン酸で白血病細胞が分化していくメカニズムに興味をもっており、その研究を私が任されたのです。Carl MillerというPh.D.の先輩に教えてもらいながら実験をして、なんとその年の米国血液学会(ASH)でオーラルの発表をしたのです。アラモの砦があるサンアントニオでした。

そもそも血液内科を目指したのはAPLの患者さんが目の前で急死されたことが大きいのですが、レチノイン酸があれば助かったかもしれません。そのレチノイン酸の研究がたまたま留学先でできたわけですから、本当に幸運でした。臨床においても、オールトランス型レチノイン酸(ATRA)でAPLが治療できることが発表され、徐々に白血病の治療法が変わってきた時代でした。3年間に論文を6報書き、Bloodにも4報が掲載されました。

有名な雑誌に名前が載るのは非常に嬉しかったですね。下書きの原稿を見せに行くと、フィルがボールペンで一生懸命直してくれて、とても勉強になりました。病気の本態を知りたいという気持ちでUCLAに行ったわけですが、研究をして学会で発表したり、論文にしたりするのはこんなに気持ちがいいものなんだと知りました。

3年後に帰国されたときには、慶應義塾大学の血液内科に変化はみられましたか。

木崎

血液内科の池田康夫先生が教授になられて、環境は少しよくなったと思います。血液内科で研究させてもらいながら、患者さんを診る生活が始まりました。レチノイン酸が効かなくなったAPL患者さんがいたので、採血をして培養し、世界初のレチノイン酸耐性APL細胞株、UF-1を樹立しました。池田先生から「自分だけの武器を持ちなさい」とアドバイスされていたのですが、これは僕の武器の1つになったと思います。国内外からUF-1が欲しいと、たくさんのリクエストが来ました。実は、UF-1という名称は、私が救えなかったAPLの患者さんのイニシャルなんですよ。その後、レチノイン酸耐性が起こる機序を研究し、それを克服するための研究も行いました。