村民から期待されて、医師の道へ

いつ、どのようにして医師を目指そうと思われたのでしょうか?

豊嶋

正直にいうと、子どもの頃は社会や歴史が好きで、本当は文系に行きたいと思っていました。しかし、わたしが生まれたのは鳥取県の過疎地域で、実家は農家でしたから、文系に進みたいと言うと、親に叱られました。 
「文系では、いい大学に行っても就職先はないぞ。お前には絶対に地元にいてほしい」 文系で東京の大学に行ったら帰ってこないに違いないと思ったのでしょう。当時は素直でしたので、どうすれば地元に帰れるのかと考えていたら、学校の先生に、医師という進路を示されました。

医師の仕事には興味をお持ちでしたか?

豊嶋

いえ、まったくイメージはありませんでした。高校三年のときに、「ブラック・ジャック」を買って、一所懸命読んで、医師を好きになろうと努力をして、医学部に進みました。正直、仕事をよく理解できたわけではありませんが、やりがいのある仕事だとは思いました。

医学部は入試も大変だったのではありませんか?

豊嶋

わたしが育った地はとても田舎で、中学校のときなど中間試験もなく、体育は裸足でやるような学校でしたので、自分がどういうレベルかも全然わからずに、高校に入りました。大変と言うことがピンと来ていませんでした。

ご兄弟は?

豊嶋

姉がいましたが、病気で亡くなりました。妹も生まれてまもなく亡くなり、残っているのはその下の妹一人です。親は子どもが何人も死んで、ものすごくつらい思いをしたのだと思います。そういう思いから、帰ってきてほしいという強い願いがあったのかもしれません。

その頃、なにかご趣味はありましたか?

豊嶋

高校時代から社会人になる頃までは、コラージュアートにはまりました。どこまでも自由に描けるところが好きでした。なにか冒険がしたい気持ちが高まると、その気持ちをコラージュアート作製に向けていましたね。


打ち込んだスポーツなどはありましたか?

豊嶋

中学生の頃は剣道に打ち込んでいました。後から知ったことですが、高校から剣道の特待生の勧誘が来ていたそうです。しかし、担任の先生や、剣道部の顧問の先生が、「この人は頭で勝負したほうがいい。変な判断をされたら困るから、本人には言わずに断ろう」と、勝手に特待生の話を断ったのだそうです。その話は、卒業のときに初めて聞きました。

ある意味、独断で決めてくださった先生のおかげで、今の豊嶋先生があるのですね。

豊嶋

そうですね。親や学校の先生、それから亡くなった姉や妹が、わたしを導いたのだと思っています。妹が亡くなったときのことは、いまでも覚えています。わたしが3歳で、妹は1歳でした。妹が家で寝込んでいたこと、そして、父がその妹を町まで連れていったこと。長い時間をかけて汽車で町まで行ったのです。亡くなったときは、霊柩車も何もないところでしたので、みかん箱に入れて帰りました。親の気持ちを思うと、今も言葉がありません。
無医村でしたから、祖父がマムシに噛まれたときも、入院したのは比較的近くにあった産婦人科医でした。いまでも、祖父が入院していた部屋のことを覚えています。畳の部屋でした。そこの病院の跡継ぎがいなくて、そこの病院長からも「跡を継いでほしい」と言われていました。

村中から期待されていたのですね。

豊嶋

はい。大学に入って1年生の夏休みに、村に帰ると、近所のおじいさんやおばあさんが「脈を診てくれ」とか、「風邪をひいた」などとわたしの家にやって来るのです。医大に行っているだけで、もう医者だと思われていたのですね。
それだけ期待されていたのですが、結局、家を離れたまま、北海道にまで来てしまいました。