患者さんやご家族に背中を押されて血液内科へ

医師への道を進んだ最初から血液内科の道に進もうと思われていたのでしょう
か?

高折

いや、最初は循環器に興味をもっていました。
僕が大学生のときだったかな、開業医だった親父が狭心症で倒れたんですよ。もともと糖尿病があり、狭心症で倒れて入院しました。そんなこともあって、大学生のときは循環器に興味があったので、心電図の勉強会とか行ったりして、けっこう循環器は真剣に勉強していたんです。循環器科に入局するつもりだったので、京大系の関連病院の中で、循環器でいい病院といわれている病院の1つだった静岡県立総合病院に赴任しました。

なぜ志望先が変わったのです
か?

高折

その当時の研修は内科に入局して、第一内科、第二内科、第三内科…とローテーションを1年間やって、外の病院に行ってからも、しばらくはそこの病院で内科のローテーションをするスタイルだったんですよ。その最初がたまたま血液内科だったんです。
その血液内科にいたときに、リンパ腫で治療にすごく苦労した患者さんがいました。まだ3年目、26歳の頃ですが、病態がよくわからなくてね。当時は今みたいに進歩してないので、リンパ腫とかで再発したときは、なかなかわからなかったりすることがありましたから。半年ほど診て、最後は結局、血球貪食症候群で亡くなられました。おじいさんの患者さんでしたが、その息子さんと娘さんに、「先生にはお世話になったから、解剖してくれていいし、ぜひ血液の専門家になってください」と言われたのが印象的でした。

患者さんのご家族の「血液内科の専門家になってほしい」という願いが、先生の背中を押したのですね。

高折

まあ、でも、それは表向きの理由なんですけどね。

表向き!?(笑) では、本当の理由
は?

高折

ほかの内科は、興味を全然もたなかったですね、全く。その当時、たとえば消化器といっても、治療法はそんなにないし、みんなオペしかない。当時は内視鏡の治療なんてできなかったのでね。神経内科は治療効果が見えないし…。循環器は一応カテーテルでの治療が始まった頃だったですけど、それでもやっぱり心臓外科にコンサルテーションしないとだめだったですからね。血液と呼吸器ぐらいでしたよ。診断から治療までを内科としてできたというのは。当時、interventionできたのは血液内科だけだったから、それも血液内科を選んだ理由でした。でも、実は学生のときは、血液内科は大嫌いだったんです。僕は、ああいう血液細胞を見るのが嫌いで。ふつう、だいたい、ああいうのが好きな人が血液をやるんですけど。しかも京都大学医学部附属病院でのローテーションの最後が第一内科、つまり血液内科でした。第一内科って、患者さんがどんどん亡くなる。それがいやでねぇ…。

そのとき診た患者さんの思い出
は?

高折

京都大学医学部附属病院の研修医時代、僕はふたりの患者さんの主治医を務めました。ひとりは中学生の女の子で、もうひとりは僕と同い年の女性です。ふたりとも慢性骨髄性白血病(CML)でした。中学生の女の子はドナーが見つからず亡くなられました。
僕と同い年の女性は、紆余曲折の末、最終的には、母親から骨髄移植を受けて元気になられました。そのときには僕はもう京都大学医学部附属病院での研修を終えて、静岡県立総合病院の血液内科に赴任していました。
彼女は、ドナーがいなくて亡くなられたもう一人の女性のことを思い、自分もドナーで苦労したから…と、骨髄バンクをつくろうと言いだしました。その彼女こそ、骨髄バンクの創設者である大谷貴子さんなんです。今でもお付き合いがありますよ。

患者さんにまた背中を押されたのですね。その頃、先生は骨髄移植を担当されていたのです
か?

高折

当時、京大系の病院は骨髄移植を全然やっていなかったのですが、静岡県立総合病院の第一内科はスタッフが多く、骨髄移植を始めようということになりました。
静岡県立総合病院で骨髄移植を行える体制を1年ほどかけて整えて、1989年に1例目のCML(慢性骨髄性白血病)の患者さんの骨髄移植をやりました。僕は2例目のAML(急性骨髄性白血病)の患者さんの主治医でした。2例目の患者さんがある程度よくなるのを見届けてから、京都大学医学部附属病院に帰ってきました。
京都大学の1例目のALL (急性リンパ性白血病)の若い男性の患者さんの骨髄移植は、僕が担当しました。それが1990年です。京都大学はちょっと遅かったですからね、移植を始めたのは。