与えられたことは120%やろう

失敗したと思ったことや、つらかったことはないのでしょうか?。

小松

留学はつらかったですね。下調べをせずに失敗しました。
留学先は「Blood」の前の編集長だったJohn Adamsonの研究室でした。三浦恭定教授が話を決めてくれて、「面接だけしなさい」と言われました。そのとき僕は、東京大学の中内啓光先生の研究室に国内留学をしていて、そこから直接留学したんです。中内先生に、留学をする前にラボ見て、どんな状態か見てくるように言われたのですが、留学前に調べないで行ってしまいました。ところが留学してみたら、Adamson先生が着任早々で研究室は工事中。人もあまりいない。Adamson先生の下にいたイタリア人夫婦に呼ばれて、「自分たちが樹立したマウスの細胞32Dを使うなら、それは自分たちの仕事だが、UT‐7を使うならそれはおまえの仕事だ。どっちを選ぶ?」と言われ、手伝いをするつもりはなかったので、「僕は自分でやる」と言ったら、その後はもう完全に1人の世界でした。自分でプランを練って、自分で培地や試薬を作製したり、試薬のオーダー等すべてのことを自分でやるはめになりました。Adamson先生はニューヨーク血液センターのプレジデントですから、なかなか会うこともできませんでした。会えるのは2週間に1回ぐらい。

同じ留学でも、ベルトコンベアに乗って、論文ができあがるところに留学している先生たちもいたので、当時の僕は「うらやましいなあ、自分はなぜこんなに苦労しなきゃいけないのか」と思いました。しかし、日本に戻ってきて、研究室を任され、実験室をセットアップすることになったときには、ニューヨークでの経験がすべて役立ちました。

だから、何が役に立つかわからないので、不平不満ばかり言っていないで、それをうまく活かすようにしたらいいと思いますね。僕は、なるべくそういうふうに考えるようにしています。とにかく真面目に、そのときそのとき与えられたテーマを120%頑張る、それしかないんじゃないかと思いますね。

自分から狙っていくというよりも、与えられたテーマを120%頑張ろう…と考えられるんですか?

小松

ええ。僕は将来を計算したことはない。講師ぐらいまでいけばいいかなぐらいしか思っていませんでしたので、助教授になったときも「まあ、そうか」ぐらい。教授になったときも、山梨大学で教授選に出ろと言われて、しぶしぶ、「じゃあ出ますか」。

山梨大学は初代だったので、完全に土台から作りました。山梨大学でずっと定年まで頑張るつもりでいましたよ。順天堂の教授選に出ないかと言われたときは、僕はそういう気はないと一度はお断りしました。半年ほどして、医学部長からもう一度直接会いたいと言われ、医学部長に電話でお断りするのも申し訳ないので、直接会ってお断りしようと思って、出かけました。それが話して気持ちが変わりました。順天堂大学の魅力に敗けたんですね。

順天堂の血液内科は僕が二代目で、ある程度基盤ができあがってはいましたが、前任の教授がおやめになって1年半経っていました。いうなれば、建物は建ってはいましたが、多少修復する必要があるお城でした。初代教授として土台をつくることができる機会と、ある程度の城ができていてその修復に関わることができる機会と、2つの形で教授職を経験するというのは、なかなかありません。そういうチャンスに恵まれたのはよかったと思います。

あまり考えていないというのがいいんですね。「流れに身をまかせる」のがね。考えて、計算してもしようがない。