臨床の魅力に惹かれつつ、研究の道へ

研修を終えた後は、迷いなく血液内科へ進まれたのですね。

小松

いや、実はその後、また他へ心が向きました。2年の初期研修が終わる頃に、先ほどお話した自治医科大学血液内科の講師の先生から、一般病院へ行く話をいただきました。大分市から1時間ほどの大分県立三重病院に医者が足りないので、ちょうど入局者が4人いるから、3ヵ月ごとに行ってくれないかと言われたんです。2年間臨床をやってきたし、ちょっと一般病院で試すのも面白いなと思ったんです。

最初に僕が行くことになりました。僕は運がいいことに、その直前の3ヵ月、ローテーションの最後に、消化器内科を回っていました。消化器内科の先生が非常に気をつかってくださって、「一般病院に行くなら、超音波もできないといけないだろう。胃カメラもできなきゃいけないだろう」と、特別に教育してくださいました。ふつうは研修医には内視鏡なんて絶対持たせてくれませんし、超音波なんかやらしてくれませんから。

それで、大分に行って、僕が中心になって内視鏡をやったり、超音波やったりしました。とにかく忙しくて、200床を超える病院で、内科の医者が3人しかいなんですね。朝の8時ぐらいから夕方の4時ぐらいまで、食事もしないで、トイレに行くのと、お茶を途中で出してくれるぐらいで、後はずっと外来をやっていました。積まれていたカルテが減ってきて、「あー、終わりだあ」と思うと、またバーンとカルテが積まれるんです。まるで、わんこそばでした。

でも内視鏡とか超音波をやったら面白いんですね。それで、一般内科も面白い、地域医療もやりがいがあると思いました。3ヵ月の終わり近くに、そろそろ帰らなきゃいけないと言ったら、患者さんが、「みんなで署名するから、先生いてくれ」と言われたわけです。僕もまだまだいたいし、3ヵ月じゃ中途半端だし、そこで教授にお願いして3ヵ月間延長させてもらいました。半年間その病院にいて、今でも思い出すと感動しますが、大学に戻るとき、病院の玄関にダーッと患者さんと職員が並んでくれて、その中を「お世話になりました」と挨拶しながら去りました。すごく良い思い出です。

それは臨床の現場、地域医療の魅力に惹かれますね。

小松

そうなんですよ。大学に戻ってきた頃は研究する気がなくて、地域医療が面白いなぁと思っていました。教授にある先生が出した実験のデータを追試する実験を申しつかり、3日ぐらい徹夜して実験しましたが、追試ができなかったんです。結局プロジェクトは頓挫しました。こんなことで時間を費やすのはいやだなぁと思い、研究が嫌になりました。

そこで教授に、「僕はもう研究をやめたい、患者さんを診ることが好きだし、患者さんに寄り添い地域に密着した地域医療で頑張りたい」と言いました。すると、アメリカに留学されていた須田年生先生が間もなく戻ってくるから、「須田くんに君を指導してもらうように言うから、まあもうちょっと頑張りたまえ」と言われたんですね。今思うと、素直だったなと思うんですけど、須田先生の論文を読んで、「ああ、こういうきれいな実験だったらいいなぁ」と思って、須田先生に指導をお願いしました。須田先生は「僕は弟子を取るとか、そういうのはあんまり好きじゃないんだけども、君を最初にして最後の弟子にするか」と言われました。実際にはその後、多くの弟子ができましたが、僕は初めての弟子でした。以前は「須田先生の一番弟子」と言っていたんですが、辞書を調べたら「一番弟子」という言葉は、「一番初めについた弟子」でもありますが、「最も優れた弟子」という意味もあり、これはまずいと思って、最近は「1番目の弟子」と言っています。

須田先生に、まず「患者さんの検体をいただいて、巨核球を培養して血小板をつくってみなさい」と言われて、骨髄増殖性腫瘍の1つである本態性血小板血症の患者さんの骨髄を培養する実験を始めました。トロンボポエチンなどがまだ同定されていない時期です。PHAという特殊な試薬で刺激をしたリンパ球の培養上清(PHA-LCM)の中に、その巨核球コロニーという巨核球を増やすような因子が出ていることはわかっていました。僕は自分も含めて、看護師さんや同僚など20人ぐらいから血液をもらって、リンパ球を分離し培養上清を作製して検討を重ねていました。そうしたら、すごくよく巨核球コロニーができている人がいるんです。それがなんと、僕自身だったんです。自分の血液を使えばいいので、作るのが楽でした。非常にラッキーだったなと思います。